昭和44年04月21日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならんぞ。十里を登りきって向こうへ降りたらそれで安心じゃ。気を緩めるとすぐに後に戻るぞ」

 色々にここのところを頂いております。私は「10里の坂を九里半登っても安心してはならんぞ」と、と云う事を昨日の様に賑やかなそして、厳粛な何か今までの大祭に無かった、満ち溢れる様なものそういう御大祭を頂かせてもろうて、まあ皆誰しもがおかげを頂いて思われた事であろうと思うのですけれども。
 御大祭をあそこまで盛り上げて行くと言う事の為には、神様の働きは勿論ですけれども、皆さんの一生懸命の真心が結集されてあの様におかげを受けたので御座いますけれども、もう御大祭が済んだと、丁度私は十里の坂を九里半登ったという感じが致しますよね。本当に盛大なご大祭を頂いてやれやれと気を抜く所にですね、大祭を境におかげを受けなければならんのに。
 大祭を境におかげを落とす様な場合があるのです。落とさんに致しましてもその大した変わり栄えのないいわゆる大祭という一つの節を乗り越えて先に伸びなければならない。前に進まなければならないのに一つも進んでいないと言った様な是が普通なのです。ですからここんところですね、後の半道と言う所をですね、十里の坂を九里半登ったのですから、実を言うたら半道の所にもう、いよいよ信心の有り難さというかね、その辺の所をおかげを受けて行く。
 一徳受けて行く人は大事にすると思うのですよね。もうそれこそまあ何というでしょうかね、まあ一押しといってもそういう意味のものじゃないですよね。さあ最後の5分間と言った様な切羽詰まった様なもんじゃないですね。その後の五分間こそ実をいうたら有難いなあというものが頂けれる所なのです。九里半まではなら一生懸命その後の五分間こそが有難いなあと言う所なのです私も昨日愈々ちょっと失敗しかけたのですよ。
 もう皆さんもまあ当たり前に、夜の御祈念を終えさせて頂いてからして頂いた。そして皆さん早く皆さんお疲れですから早く帰って下さい。昨日は久富先生も繁雄さんも早う帰られました。送り出してしまって、さあさあ今日は早う休ませて貰おうと思うて休ませて貰うた。所がなんですもう本当にもう床に着いたらもう其の侭、休んでしまわなければならない程にまあ、疲れておる筈のに関わらず一時になっても眠れませんもん。
 それから、とうとう私は起きてお広前に出て参りまして、御祈念させて頂きよりましてから、又そのご大祭のあれこれお礼申させて貰いよりましたら、今度は又有り難うして有り難うしてもうそれこそ、今朝、朝の御祈念までここへ座っておってもよかというごと有り難くなっておる。
 私はここん所がね昨日のご理解ではないけれども、信心が信心を教えてくれると言う所がね、その辺の所だと思うのですけれどもさあやれやれ済んだ、今日はもう疲れておるけんで早よ休みなさいと皆休ませてさあ私も休んだ所がどっこい休まれん。休まれん筈はないのにやすまれん。そこで神様は後の半日残っておる所の有難い所を下さろうとしておるのですよね。この辺の所が、私は信心させて頂きゃ大事な所だと思います。
 もう一生懸命、そこまでなら九里半まで、例えば昨日の大祭の例をとりますと、九里半のところまでは誰でも一生懸命になっておるのですから、行っておるのですけれども、あと半道と言うところで後戻りをしてしまうと言ったところでは惜しいでしょう。大祭を境におかげを頂く人、大祭を境に後戻りする人。大祭を境も何にも無い、矢張り同じ様に後戻りもしとらんが、先にも進んでいない、大祭が節だと言われるのに、節を乗り越えて先に進んでいないとするならば、惜しいですね。
 向こうへ降りたらそれで安心じゃ。気を緩めると直ぐに後に戻るぞと。向こうへ降りたらと言うところ迄、例えば私は夕べもう、このまま、御神前に座ってお礼をもうさせて頂いても、良いではなくてそう立たれん位に言わば有難くならせて頂けれると言うところ。そしてまあ、時間にすれば十五分か二十分経ったでしょうけれどもその、休ませて頂いたら、それこそいつ休んだやら覚えん事休ませて頂いておる。今朝は本当にすがすがしい目覚ましのおかげを頂いた。
 昨日お祭りが済みまして家内がお届けに出て参りました。今度私の方の三番目の娘の直子と、佐田さんところの典子さんが舞の奉納をさせて貰いました。今度の舞はあの今まであるあのあれは宮の春でしたか、なんでしたかあれとそれをアレンジしてあるんです。振り付けを豊美がしましてね。大体一人で舞う舞なんですそれを二人で舞えれるようにあの、いわば振り付けを致しましてねそして二人に、それを教えて舞をで御座いましたが。そんな訳でもう、初めての言わば舞ですから。
 非常に豊美も厳しゅう二人に稽古をつけましたし、もう二人も何遍泣き出したか分からん位に修行付けられておる訳です。そしてもう来る日も来る日も一生懸命で叩かれんばかりにしてあそこまで舞えるおかげを頂いたのです。さあ昨日の御大祭舞治めた後には二人が涙ボロボロ流しよるなさるですもん。そしたらねもうそれこそ、途端にですね私の直子は顔が腫れだしましてね、その何ちいうでしょうかね、あれがもし三十分間早よ腫れとったら舞いも出来なかったのですよね。
 こんなこう沢山のこと腫れちから舞いも出来んでしょうが。もう神様の間違いなさには恐れいるというて、家内がそのお届けを致します中にです、私は今日81節のご理解を頂いて、又思うのです。それこそ、ああいう子供心にもうご大祭御大祭と一生懸命なんです。舞治めたから、やれやれと気が抜けた途端腫れた。神様のそういう間違いなさと云う事もさる事ながらです。
 やれやれと気を抜いた所にもう、顔が腫れておると云う事です。私はこの辺の所を大事にしなければいけんと思うですよ。是がですね、例えばまあ、舞を治めた顔が腫れたと、途端にそれだけならいいですけれども、これが命に関わる様な事であったならどうします。もうここまでおかげを頂いたけん、もう大丈夫だろうもう皆さんも大丈夫ばのち言いなさるけんち言うてもう、床上げもまじかという時にやれやれと元に振り返ってしもうて命を落とす様な事にならんのですから。
 いかにその後の半道が大事かという事が分かるでしょうが。私は信心させて頂くものは後の半道の所を有難さを一つ味あわせて頂く、体験させて頂く信心を是非頂かなければいけません。御大祭でも盛大に賑やかにあの様に奉仕させて頂く事が出来た。さあやれやれ御大祭も済んだ。ね、そこで私は力を落としたのでは形には腫れておらんだろうけれども、お互い腫れておる様な事が沢山ありゃせんかと思うのです。
 向こうへ降りたら安心じゃと。その事が本当にまあ、昨日の私の御大祭の挨拶の中にも申しました様に、お互いが折角信心をさせて頂くのですから、どんなに心の中に卑しい心というか汚い心というか、又は情けない心というか悲しいというか、腹が立つというかどう言う様な時にでも金光様とこう念じたらです、それが治まるとか清まるとかいう位な所までは一つおかげを頂きたいと申しましたですよね。
 (?)くたくたするごと疲れた。はあとそのままなご成りたいごとある所をです、それこそ金光様と唱えさせてもろうて、それこそくたくたになる程に疲れておりますけれども、金光様と唱えるそこから有難いものが、こう湧き出て来る金光様を頂きたい。きつう御座います。もう本当にへとへとです。けれども有難いというのです。この有難いそれが生き生きとした、新しい、いわば血が湧いて来る様に必ず元気または、回復のおかげになって来る事を私は信じます。
 ですから向こうへ降りたらと言う事はその事です。そういう意味に頂かねばならんと思います。くたくたに疲れたと言う所まではまだ九里半登ったんです。後の半道のきつさきつさ。もう峠はそこに見えておるけれども、きつうして応えんというので御座いますから、けれどもそこんところへ、その元気を出してじゃない、そこんところをいうならお取り次ぎを頂いて金光様である。 
 そこからきつう御座いますけれども有難い。その今度有難いが頂上に登っておる。また向こうへ降りておる。今日八十一節を頂きましたが昨日の御大祭の事をこう思い、振り返らして頂いてまた、私の直子がもうそれこそ舞の御装束を脱ぎ捨てるのを境の様にですね顔が腫れだした。神様の間違いなさを有難いと思うと同時にです、やれやれと気を抜いたらこの様なもので、あろうかと思わせて貰うので御座います。
 どうぞその本当いうたらその後の半道こそ有難いのである。それから先がいよいよ有難いのである。今日は親教会に佐田さんかた、揃うてお礼参拝をさせて貰います。本当にそのお礼参拝をさせて頂いてからご大祭が済んだという気持ちにならせて頂かなければもう、御大祭が済んだからやれやれでお礼で行ったんではもう気を抜いてお礼に行く様なものになります。お礼参拝をさせて貰うまでは気を抜いてはならん。まあそう言う様なです、信心には心がけが必要だと思うのです。
   どうぞ。